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「ファン・デル・パーレの聖母」

 ヤン・ファン・エイク (1436年)

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 あまりに綿密に描き込まれた画面が息苦しいほどです。多くの要素が詰め込まれ、息つく暇も与えられないという感覚で、画家には空間恐怖の病があるのではないかと疑いたくなります。
 しかし、仔細に観察していくと、何一つ破綻のない画面のみごとさに、いつの間にか鑑賞者は作品に引き込まれているのです。中世末期には、聖母子もこんなにクリアな姿で教徒たちの前に立ち現れたのでしょうか。それとも、北方の澄明な空気が、こうした聖なる人々をも鮮やかに表出してしまうのだろうかと本気で考えてしまいたくなります。
 画面の中のもの全てが実際に手に触れ、その質感や肌ざわりを確かめてみたくなるような迫真ぶりです。聖母の赤いマントの襞の美しさ、縁を飾る金糸の刺繍のみごとさ、さらに聖人の甲冑に施された目もくらむような細工、光の反射、そして聖人の法衣の臨場感、輝き……どれ一つとっても、これが人間の手によって描き出されたとは信じがたいほどの細密描写なのです。これがファン・エイクの、「現実を超えた写実」の濃密な世界なのです。

 ヤン・ファン・エイク(1390-1441年)は、15世紀ネーデルラント絵画の創始者と言われています。しかし、創始者とはいえ、真に彼の後に続く画家が現れたのかどうか、疑問に思うほどの天才であり、絵画の革命家であったという気がします。
 ヤンのあまりにも微細な写実描写は、実は現実ではありません。このように隅々まで鮮明に見分ける目を、私たち人間は持っていないからです。そして、もちろん、彼が描くようなゴージャスな宝石や金糸で飾られた衣装も、普通には入手できなかったはずです。そんな、あり得ない現実を、ヤンは驚くほどに美しく透明な色彩を用いて描いたのです。
 ファン・エイクを語るとき、油彩画の古典技法の完成者であることを抜きにしては考えられません。ヤンは、日陰でも速く乾く油の研究を始め、改良を重ねて、フレスコでは不可能な細部の表現と鮮やかな色彩、透明感あふれる画面を実現させたのです。
 また、古典や幾何学などにも精通したヤンは、ブルゴーニュ公フィリップ善良公(在位 1419 – 1467年)のお気に入りでした。個人的にも親交が深く、「彼ほど技量と学識に秀でた画家はいない」と重用し続けました。宮廷を離れてブルッヘに邸宅を構えてからも、終生、善良公の寵愛は変わらなかったといいます。ヤンの長男の名付け親も善良公であり、公は自分の名「フィリップ」を与えたほどでした。そして、ヤンの死後、娘のリヴィナが修道院に入った際には、その費用を授けたりもしているのです。

 ところで、この板絵は、ブルッヘのシント・ドナートゥス教会参事会員のゲオルギウス・ファン・デル・パーレが同教会に寄贈したものです。聖母の向かって右側の白い服の人物がファン・デル・パーレであり、彼の守護聖人・聖ゲオルギウスを伴っています。そして面白いことに、聖ゲオルギウスは兜を取って聖母子に彼を紹介しているのです。こんなに微笑ましい図は、もしかすると珍しいかもしれません。多くの場合、聖人は寄進者のそばに付き添うように描かれるのが馴染み深い姿です。
 さらに、向かって左端に立つのは、この作品が奉納されたシント・ドナートゥス聖堂の聖人・ドナティアヌスですが、彼もまた現実の存在ではありません。伝説によれば、彼はランスの司教でしたが、迫害者たちによってテヴェレ川に投げ込まれたといいます。その遺骸を探すために、車輪に5本の火を灯した蝋燭を立てて川上から流したところ、聖人の沈んでいる場所で止まりました。そこで、遺体は引き上げられ、祈りによって蘇生しました。そのため、彼の持ち物は、蝋燭を縁に並べた車輪なのです。
 寄進者ファン・デル・パーレの視線が、聖母子や聖人たちではなく、あさっての方向を向いているのは、これが全て現実ではなく、幻視だからなのです。こんなにみごとな幻視を経験できるなど、なんて幸福な人物なのでしょう。

★★★★★★★
ベルギー、 ブリュージュ市立美術館蔵

 <このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
  ◎キリスト教美術図典
        柳宗玄・中森義宗編  吉川弘文館 (1990-09-01出版)
  ◎西洋絵画の主題物語〈1〉聖書編
        諸川春樹監修  美術出版社 (1997-03-05出版)
  ◎週刊美術館 31― デューラー/ファン・エイク
        小学館 (2000-09-19発行)
  ◎西洋美術史(カラー版)
        高階秀爾監修  美術出版社 (1990-05-20出版)
  ◎西洋絵画史WHO’S WHO
        諸川春樹監修  美術出版社 (1997-05-20出版)



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