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「岩から水を出すモーセ」

ティントレット (1577年)

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 ティントレットの描く旧約聖書の世界は、しばしば私たちの目も心ものみ込んでしまうようです。本来のエピソードを超えたティントレットワールドは、この「メリバの水」でも遺憾なく発揮されています。

 モーセに導かれてエジプトを逃れたイスラエルの民は、何度となくモーセを失望させます。ツィンの荒野にたどり着いたとき、そこには飲み水が十分にありませんでした。人々の不満は爆発し、モーセと兄のアロンに対する抗議の集会を開いたのです。彼らはエジプトでの400年間の奴隷生活を忘れて、今よりもエジプトにいるほうがましだったと文句を言い出します。
 そこでモーセとアロンはその集会を去り、神の前にひれ伏しました。するとモーセとアロンの祈りに神が応えます。「杖を取り、共同体を集め、岩に向かって水を出せと命じれば、岩は水を出す。会衆とその家畜に飲ませよ」。モーセは神の命に従って岩を打ち、そこから水が噴き出したのです。勢いよく流れ出す水は人々に降り注ぎました。
 しかしこの出来事は、律法の代表者であるモーセが約束の地であるカナンに入れなくなった大きな原因となります。モーセはあまりにも自分勝手な人々に腹を立ててしまったのでしょう。杖で岩を打つ前に、「逆らう者たちよ、さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか」と言い放ってしまったのです。これでは主による「みわざ」であるというより、モーセの力で水を出してやるのだぞと言ったに等しい高慢な態度だったわけです。
 そしてもう一つの原因としては、彼が杖を手にして2回岩を打ったことでした。これは信仰を持たない身にはちょっとわかりづらい理由なのですが、主は「岩に水を出せと命じなさい」と言っているわけで、岩を2回もたたけとは言っていません。そこにモーセの不信仰があり、神の言葉をそのまま実行できなかったモーセのしくじりがあったというわけです。わがままを言う人々に堪忍袋の緒が切れて岩をたたいてしまったモーセに、神はカナンへの道を閉ざしたということになります。

 この作品はヴェネツィアにある聖ロクス同信会館2階の大広間の、天井装飾の核心をなす550×520㎝という大作です。モーセが杖で岩を打ったその瞬間水が噴き出し、渇きに苦しんできた人々は身を乗り出し、瓶や器に水を受けとめます。赤子を抱いた女性も犬も牛も、その恩恵にあずかるべくモーセのもとへと怒濤のごとく殺到するのです。大胆な短縮法によって描き出された神の姿も右上に認めることができます。透明な水晶のような球に乗って、モーセに「みわざ」を与えているようです。流れ落ちる水はキリストが十字架上で流す血を連想させます。右下の男は、聖杯でそれを受けとめるアリマタヤのヨセフのようでもあります。

 この聖ロクス同信会館は教会ではありません。1477年にペストが流行した際、病人の看護を目的に設立された施設です。聖ロクスはペスト患者の守護聖人でもありました。建物は1549年に完成していましたが、内部の絵画は1587年まで段階的に制作されていました。そして、その堂々たる絵画群はティントレット渾身のライフワークそのものでした。聖書から題材をとった23枚の大絵画は、神を想い人々の健康を祈る画家の志そのままに、今も大広間に渦巻くように展開しています。岩から流れ出した聖なる水は、救済を求めて作品を仰ぎ見る私たちにも降り注いでいるかのようです。

★★★★★★★
ベネツィア、 聖ロクス同信会館 蔵

 <このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
  ◎ティントレット画集
       諸川春樹解説  トレヴィル;リブロポート (1996-01-15出版)
  ◎西洋絵画の主題物語〈1〉聖書編
       諸川春樹監修  美術出版社 (1997-03-05出版)
  ◎ルネサンス美術館
       石鍋真澄監修  小学館 (2008-10-24出版)
  ◎オックスフォ-ド西洋美術事典
       佐々木英也著  講談社 1989/06出版 (1989-06出版)
  ◎イタリア絵画
       ステファノ・ズッフィ編、宮下規久朗訳  日本経済新聞社 (2001/02出版)



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