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「最後の審判」

ミケランジェロ・ブオナルローティ  (1535-41年)

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     <システィーナ礼拝堂内観>

 ヴァティカン宮殿内の、教皇専属の礼拝堂として構想されたシスティーナ礼拝堂は、15世紀後半の教皇シクストゥス4世によって建造されました。そして内部の装飾はシクストゥス4世以後、ユリウス2世、パウルス3世らによって進められ、旧約・新約聖書にわたるキリスト教美術を代表する大壁画群となっていったのです。天井画には旧約の「創世記」を中心として周囲に預言者や巫女が配され、さらに三角弧壁面にイスラエルの民の救済物語、半円区画にはキリストの祖先たちが描かれています。その下の側壁には旧約のモーセと新約のキリストの物語、そしてこの力強い「最後の審判」で完結に至ります。

 ミケランジェロの祭壇壁画『最後の審判』は、パウルス3世の命によるものと言われています。「神のごとき人」という形容を与えられたミケランジェロは、これまでにない、魂が激しく揺さぶられるようなダイナミックな「最後の審判」を描き上げたのです。しかし、これ以前…1508年から4年かけて、ミケランジェロはすでに天井に「創世記」を描いています。足場の上でひたすら天井を見上げ、落ちてくる絵の具を顔面で受けながらの制作は、30代のミケランジェロをすっかり老人にしてしまったと言います。ですから、「最後の審判」の依頼を受けたときは60歳過ぎ….彫刻作品に専念したい意向もあって、最初は辞退しています。しかし、結果的に引き受けざるを得なくなり、それが彼の最高傑作と謳われることとなるのです。

 ミケランジェロ自身の好みもあったと思いますが、中央のキリストは、それまで多くの画家が描いてきたキリストとはかけ離れた、若々しく逞しい風貌と肉体を持った、非常に動的な人物として表現されています。そのキリストを起点として、向かって右側の地獄に墜ちる人々と左側の天国に昇る人々とが、ダイナミックで宇宙的な円環を描いています。
 最後の審判が下される日、キリストの再臨とともに死者たちもこぞって蘇生し、生きている者たちと最終的な審判を受け、天国と地獄に容赦なく振り分けられるのです。マタイ福音書には「人の子が栄光の中にすべての御使いたちを従えてくるとき、彼はその栄光の座につくであろう。そしてすべての国民をその前に集めて、羊飼いが羊と山羊を振り分けるように彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置くであろう」とあり、まさに今ここに、キリストの言葉が実現されているというわけなのです。

 それにしても、緻密に描かれた人物たちの表情や動作の、なんと不安に満ちていることでしょうか。この作品じたいが、マニエリスムの先駆けとも言える徴候を示しているせいもあるのですが、不安定で、身の置きどころが定まらぬように浮き上がった人物たちは、その主題とともに、見る者を圧倒し、胸苦しいほどの迫力ですべてを呑み込んでいってしまいそうです。殊に、中央より向かって右下あたりで悪魔と蛇に捕らえられ、片手で顔を覆ってこちらを見つめる人物の姿は強烈なインパクトで、見る側に迫ります。これほどの絶望、茫然自失の表情をミケランジェロはどうやって創出したのでしょう。しかし、よく考えてみると、こうした底なしの絶望感を、私たちは生きている間に何度か経験しているのかも知れません。これは万人に共通の顔なのです。彼は画面の向こうからこちらに向かって、地獄へ堕ちるよりももっと恐ろしいことが、この世にはあるのですよ….と語りかけているのかも知れません。システィーナ礼拝堂に実際に行ったことのある人はおそらく誰も、この『最後の審判』をどの作品よりも強烈に記憶にとどめるのではないでしょうか。

 ところで、聖母を除くかなりの人物が、描かれた当初、一糸まとわぬ全裸で描かれていました。しかし、これを神を汚すものだと批判する声に配慮した16世紀の教皇パウルス4世は、時代の趨勢もあり、腰布を描き加えるようにと命じたのです。それはミケランジェロの死の直前でもありました。「修正」を命じられたのは、当時の一流画家だったダニエーレ・ダボルテッラであり、キリスト、ペテロ、洗礼者ヨハネなどの局部に腰布が加筆されました。このあと、17、18 世紀にも次々と描き加えられていき、原画では裸体だった人物たちが皆、衣服や腰布を着けることになってしまったのです。最終的には、その数が200人にもおよんだと言われています。
 そして、この作品に関するもう一つの興味深い逸話としては、じつはレオナルド・ダ・ヴィンチが『最後の審判』に意欲を持っていて、密かに構想も練っていたということなのです。しかし、ジュリアーノ・ディ・メディチの死もあり、彼は失意のうちにローマを去ったのです。宿命のライバルであったレオナルドがもし、『最後の審判』を描いていたら….宗教画の歴史も、だいぶ違うものになっていたのかも知れません。

★★★★★★★
ヴァティカン宮殿システィーナ礼拝堂 蔵



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