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「大使たち」

ハンス・ホルバイン(子) (1533年)

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 堂々たる存在感でこちらを見る二人の人物は、当時流行していたルネサンス運動と深く関わっていた教養ある人物であることを感じさせます。それは、棚に並んでいる品々が数学的、科学的知識を得るためのものであり、彼らがそれに親しんでいたことが伺えるからなのです。そして、もちろんこの演出は、二重肖像画の主人公たちが望んだことだったに違いありません。

 1533年のヨーロッパは、ある意味、激動のときを迎えていました。イングランドの国王ヘンリー8世が、スペイン王家の出身であったキャサリン王妃を離婚し、法王の許可を得ずに、侍女であったアン=ボレンと結婚してしまったのです。この結婚に反対したトマス・モアは斬首され、ロンドン橋にさらし首にされたといいます。
 これに対し、法王クレメンス7世がどう反応するのか、ヨーロッパ全土は息を呑んで注目していました。殊にフランス国王は詳しい情報を得るため、聖ミカエル騎士団の騎士ジャン・ド・ダントヴィルを大使として英国へ派遣したのです。
 ところが、5月に入り、ダントヴィルは早くフランスへ帰りたいと願うようになります。そんな彼のもとへ、極秘の任務でロンドンに来ていた友人、ラヴール司教のジョルジュ・ド・セルヴが訪ねてきました。この出来事が歴史にはっきりと残されているのは、二人の再会を記念した絵画、ハンス・ホルバイン (1497/98-1543年)作の「大使たち」が存在しているからなのです。当時、向かって左側のダントヴィルは29歳、右側のセルヴは25歳でした。

 一見すると、細部まで完璧に精緻に描かれた、みごとな肖像画です。さすがにドイツ・ルネサンスを代表する肖像画家ホルバイン……。しかし、ふと二人の足元を見たとき、鑑賞者は、この場の均衡を乱す不思議な物体が描かれていることに気づきます。そして、それに気づいてしまうと、この謎の物体が目障りで、気になってしかたなくなってしまうのです。信じがたいことですが、これはホルバイン自身がある意図をもって描いたものなのです。

 二人の大使は棚の両側に立っていますが、そこに置かれた物たちは、それぞれに意味を持っています。中には、ヨーロッパで起こった歴史的イベントを示唆したものもあるのです。
 例えば、下の棚、向かって左側の「商業算術書」の割り算のページに定規が挟んであるのは、ヨーロッパが分離した状態にあることを示しています。また、楽器のリュートはもろさのシンボルですが、ここでは弦が切れていて弾くことができません。さらに、まとめて置かれたフルートは1本だけが出っぱっていて、調和を乱す存在となっています。そして、開いて置かれたルター派の讃美歌の楽譜は、ドイツがすでにローマ・カトリック教会と決別していたことを示していたと思われます。
 そうなると、二人の大使は、イングランド国王にも同じ決断を求めていたと考えるべきでしょうか。しかし、さらによく見ると、そうではないことがわかります。開かれたページに書かれた讃美歌は、ドイツとローマ・カトリック教会の両方で歌われていたものだからです。大使たちが望んでいたのは分裂ではなく、キリスト教世界の統一だったのです。
 しかし、二人の願いとは裏腹に、床に落ちたリュートのカバーが残念な未来を予感させます。この先、ヘンリー8世が法王から破門され、英国教会とローマ・カトリック教会が決別することを、画家はすでに予期していたのかもしれません。

 ところで、ここまで合理的なこの絵の中に、なぜ見たこともない物体が、唐突に描き込まれているのでしょう。まるで悪意をもって浮かび上がったようなこの物体に、私たちはますます戸惑いを覚えます。
 しかし、実は、これはトロンプ・ルイユ(だまし絵)なのです。画面右の下から見ると、謎が解けます。コンピュータのない16世紀に、このような絵を描くことは相当に大変な作業だったのではないでしょうか。確かに、忽然と骸骨が立ち現れるのです。
 しかし、これは一体、何を意味しているのでしょう。この場面で、単に死の象徴だ、などと言い切ってしまうのも、つまらない気がします。
 二人の大使を見ていると、骸骨は歪んで見えます。そして、あえて骸骨を見ようとすると、他のものたちが歪んでしまいます。実は、どちらが現実世界なのでしょう。カーテンの後ろに、隠れるように架けられたキリストの磔刑像は、「行動に注意せよ」と警告しているようです。つまり、現実に疑問を持つこと、それが画家の真の意図だったのかもしれません。

 しかし、ここで大胆な仮説を立てた研究者がいました。この骸骨は、画家のサインだというのです。ドイツ語で「ホルバイン」とは、「からの骨」を意味します。だから、これこそ画家ホルバインの、いたずら心いっぱいのサインなのだというわけです。早くから、科学的な遠近法を駆使し、迫真的な肖像画を描き続けたホルバインはヘンリー8世の宮廷画家として仕えながらも、王の非情さに、内心では忸怩たるものがあったのかもしれません。そんな心持ちが、一見すると判別できない骸骨を、画家に描かせてしまったのかもしれません。 

★★★★★★★
ロンドン、 ナショナル・ギャラリー 蔵

 <このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
  ◎西洋美術史(カラー版)
      高階秀爾監修  美術出版社 (1990-05-20出版)
  ◎世界名画の旅〈4〉ヨーロッパ中・南部編
      朝日新聞社 (1989-07-20出版)
  ◎幻想の画廊から
      渋沢龍彦著  青土社 (1990-04-10出版)
  ◎西洋美術館
       小学館 (1999-12-10出版)
  ◎オックスフォ-ド西洋美術事典
       佐々木英也訳  講談社 (1989-06出版)



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