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「叫び」

エドヴァルト・ムンク (1893年)

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 「ある夕方、私は道を歩いていた。片側は市街で眼下にフィヨルドが広がっていた。私は疲れて気分がすぐれなかった。….陽が沈んでいくところで、雲が血のように赤く染まった。私は自然をつらぬく叫び声を感じた。叫び声を聞いたように思った。私はこの絵を描いた。雲を本当の血の色で描いた。色が叫んでいた」
ムンク自身が書いた、これがあまりにも有名な『叫び』に寄せたコメントです。彼は、フィヨルドの海岸で出会ったドラマティックな日没から、決定的なインスピレーションを得たのです。

 水と空を、めまいをおぼえるような波打つ色で描き、それは衝撃波となってムンク自身を襲います。そのとき、ムンクは…といえば、自身の姿は抑制され、ただ恐怖を体現する一個の物体と化して凝結するのです。
 初期のころ、彼の作品は批評家たちによって「印象派風」と言われていました。もちろん、この当時、これは悪口に近い称しかたではありました。しかし、ムンクは、印象派の画家たちのように天気や時刻によって刻々と引き起こされる光のバリエーションを描くことよりも、そうした光のトリックとも言うべき変化のときに起こる、瞬間的な視覚のゆがみそのものに注意を向けていたのです。そして、視覚的な印象を描くことで、それが感情に及ぼす効果を描写していったのです。

 彼は自分の方法を批判する人々に対して、
「自然は手段であって、目的ではない。自然を変えることによって何かを獲得できるならば、そうすべきだ」
と主張しています。この率直さはムンクのひとがらの一端を表すものですが、また一方彼は、ごく内気な性格でもあったため、常にやや風変わりなアウトサイダーという立場でもありつづけました。
 幼いころのムンクは閉所恐怖症的で、しかも病弱でもあったため、家のなかに閉じ込められての生活がつづきました。また、最愛の母や姉ソフィエを早くに喪うという不幸のなかで、彼の父親の熱狂的な信仰心は父を狂気の一歩手前にまで追い詰め、祈りながら部屋のなかを何時間も歩き回るような状態となってしまったのです。そうした幼児期のつらく恐怖にちかい記憶は生涯ムンクにつきまとい、彼の魂のなかの消えない傷痕として横たわりつづけました。死のイメージが彼の作品のなかに繰り返し現れるのも、彼のうちに住む黒い天使のなせるわざだったのかも知れません。

 ムンクが死亡したとき、ベッドのそばにはドストエフスキーの『悪霊』が置かれていたといいます。自らのパラノイアや不安の概念をはじめて絵画として表現してみせた画家には、ごくふさわしい逸話のような気がします。

★★★★★★★
オスロ、 国立美術館蔵



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