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「キリストの洗礼」

ピエロ・デラ・フランチェスカ (1430-1440年代)

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 「悔い改めなさい。天の国は近づいた」と、洗礼者ヨハネは荒野で人々に説き続けていました。彼はラクダの毛皮を着て革帯を締め、イナゴや蜂蜜を食べて暮らしながらその時を待ち続けていたのです。「主の道を整え、その道筋を真っすぐにせよ」。彼の父は祭司ザカリア、母は聖母マリアのいとこエリサベトでした。
 ヨハネはヨルダン川の岸に集まってきた人々に洗礼を授けていました。人々は彼こそが救世主と思っていました。しかしヨハネは、「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」と語っていました。
 そしてイエスは洗礼を受けるためにやってきました。ヨハネは、自分こそあなたから洗礼を受けるべきだと一旦は断りますが、イエスの言葉に従って洗礼を授けることとなります。それがまさにこのシーンです。この上なく静かに手を合わせるイエスの頭上に、ヨハネは貝殻で聖水を注ぎます。
 そのとき天が開け、聖霊が鳩の姿でおりてきます。そして、「これはわたしの愛する子、わたしのこころにかなう者」という神の声が聞こえます。これがイエスの救い主としての公生活の始まりでした。この後、イエスは荒野で40日間の断食に入るのです。

 ところでこの作品は、ボルゴ・サン・セポルクロ(現サンセポルクロ)にあるサン・ジョヴァンニ・バッティスタ聖堂の主祭壇中央のパネルとして描かれました。おそらく現存するピエロの一番最初の作品です。キリストの救い主としての人生と、ピエロの画家人生の始まりが重なる不思議に打たれます。中部イタリアの小都市ボルゴ・サン・セポルクロはピエロの生まれ故郷です。10代でこの仕事をこなしたピエロは、この後フィレンツェ、フェッラーラ、リミニ、ウルビーノの宮廷で活動し、名声を得ていくことになるのです。初期ルネサンスの画家の中でも際立って知的で偉大な数学者でもあったピエロの画面は、既に正確な遠近法に支配された美しい構成となっており、やや棒立ちに見える人物たちまで初々しく映るのが画家ならではかもしれません。

 ところで本来は多翼祭壇画の中央にあったはずの「キリストの洗礼」が、いま単独でナショナル・ギャラリーに展示されているのには理由がありました。1807年、マッティオ・ディ・ジョヴァンニと共同制作された多翼祭壇画は、サン・ジョヴァンニ・バッティスタ聖堂からサン・セポルクロ大聖堂に移されました。ところが1857年、大聖堂を訪れたイギリスの商人が、中央にあったピエロの作品だけを2万3000ポンドで買い上げてしまったのです。そのため、今は中央部分が抜けた悲しい祭壇画となってサン・セポルクロ市立美術館に展示されています。もしかすると、もとの場所に戻る日をこの板絵は待ち望んでいるのかもしれません。

 遠景には聖霊の出現に驚くパリサイ派の司祭たちを置き、中間に次に洗礼を受けようと服を脱いで準備している人物が描かれています。ここに新しい宗教の誕生という主題が明確に提示されています。そして画面左側の3人の天使のうち、一番右の天使が肩に掛けているのはキリストの赤いマントです。これはやがてイエスが十字架にかけられる前、処刑場への道行きに羽織らされるマントを暗示しています。そして聖霊をあらわす白い鳩は画面がつくる円の中心に描かれています。この位置は動かし難いものであり、1ミリのずれも許されないポイントといえます。そして前面の白い木はこの地方を象徴する樫の木、遠くに見えるのは画家が愛してやまない故郷ボルゴ・サン・セポルクロの町と言われています。

★★★★★★★
ロンドン、 ナショナルギャラリー 蔵

 <このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
  ◎鑑賞のためのキリスト教美術事典
       高階秀爾監修  視覚デザイン研究所 (2011/3/15)
  ◎オックスフォ-ド西洋美術事典
       佐々木英也著  講談社 1989/06出版 (1989-06出版)
  ◎ルネサンス美術館
       石鍋真澄著  小学館(2008/07 出版)
  ◎西洋美術館
       小学館 (1999-12-10出版)
  ◎イタリア絵画
       ステファノ・ズッフィ、宮下規久朗編  日本経済新聞社 (2001-02出版)



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