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「自画像」

マリー・バシュキルツェフ (1883年)

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 自画像は、不思議なほど、その画家の心情を映し出します。画面のこちら側を見つめる彼女の瞳は、私たちに何事かを問いかけているようです。

 ロシアの小貴族出身の女流画家マリー・バシュキルツェフ(1858-1884年)は、1877年に母親と一緒にパリに出て、当時としては女学生を受け入れた数少ない画塾、アカデミー・ジュリアンで学び、そのままフランスで活躍した教養豊かな画家です。明るい色彩を特徴とする作品で人気を得ましたが、結核のため、25歳という若さで夭折しています。
 バシュキルツェフは、その短い生涯の中で、とても多くの作品を遺しています。中でも、パリの貧民街の子供たちを描いた「集合」や、絵画を学ぶ女性たちをテーマにした「アトリエにて」は彼女の代表作です。バシュキルツェフの真摯な姿勢が伝わる作品ですが、サロンでの高評価にもかかわらず、
「若い娘の作品にしては立派すぎる」
などといった信じられない理由から、栄冠を手にすることができませんでした。そのため、あえて男性名前でサロンに出品したりもしていたようです。

 そうした封建的な美術界での苦悩を、バシュキルツェフは84冊にのぼる克明な日記にしたためていました。これは、今では、女性画家が置かれた困難な状況を知る貴重な資料でもありますが、当時のバシュキルツェフにとっては、まさに命を削るような、血を吐くが如き記録だったはずです。
 早熟な彼女は、13歳から日記をつけ始めました。そこには、
「私はもう13である。こんなに時間を無駄にしていて、これから先どうなるだろう」
と記され、すでに短い生涯を予知していたかのようです。
 そして、死の直前には、
「もし早死にをしなかったら、私は大芸術家として生きたい。しかし、もし早死にをしたら、私の日記を公表してほしい」
と書いています。
 自分が死んだら何も残らない。その思いが、若いバシュキルツェフの心を暗くしていたようです。サロンでの評価が決まらないことの不安と、忘れられてしまうという恐れが彼女を突き動かしていた、と宮本百合子もその著書の中で語っています。

 この自画像は、死の前年に描かれています。画材を手に、画家としての自負を真っ直ぐな瞳にたたえたバシュキルツェフは、しかし、どことなく不安げでもあります。画家としての生きにくさに加え、すでに、体調に翳りが見えていた時期でもあったのでしょう。しかし、不調を周囲の人々に知らせることなく、彼女は寸暇を惜しんで制作を続けていました。
 フランスでは1897年まで、女性がエコール・デ・ボザール(官立美術学校)に入学することは許されませんでした。さらに、女流画家がサロンで活躍しても、当時最も崇高とされた歴史画や物語画は画題として選ぶことが困難でした。大作を手がけるための人物画のデッサンなども、大きく制限されていたからです。そのため、サロンでの成功は、静物画や動物画、さらには家庭生活をテーマとした二次的なジャンルでしか望めなかったのです。
 それでも、プロの女性画家が少しずつ社会の中で認められてきた19世紀後半、ルーヴル美術館で模写をし、強い意志のもとに絵筆をとる女性たちによって、バシュキルツェフが書き遺したような苦労も、徐々に報われつつあったのです。

★★★★★★★
フランス、 ニース美術館 蔵

 <このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
  ◎宮本百合子全集 第九巻
       河出書房 (1979年7月20日初版発行)
  ◎印象派
       アンリ‐アレクシス・バーシュ著、桑名麻理訳  講談社 (1995-10-20出版)
  ◎印象派美術館
       島田紀夫著  小学館 (2004-12出版)
  ◎西洋美術史
       高階秀爾監修  美術出版社 (2002-12-10出版)



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