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「聖母の死」

ピーテル・ブリューゲル (1564年ころ)

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 波乱に満ちた生涯を深い信仰をもって受け容れ続けたマリアにも、やがて人間としての死の時がやってきます。聖書では黙して語られていませんが、『黄金伝説』などでは、エルサレムの都のはずれ、シオンの丘の家で彼女は臨終を迎えたと言われています。わが子イエスが天に召されてから12年….あるいはそれに倍する歳月を生きたと言われるマリアは、すでに60歳から70歳になっていたかと思われます。彼女の胸には、神から授けられ、受難をともにし、そして召されていった「御方」の姿、その言葉の一つひとつが生き続け、おそらく癒されることのない悲しみは絶えず彼女の心を波のようにひたし続けていたことと思います。
 そんなある日、あの受胎告知の日と同じ光景がマリアの目の前に展開されます。大天使が大切なお告げを携えて彼女の前に立つのです。しかし、あの若き日と違うところは、大天使がガブリエルではなく、死者の魂を導くとされるミカエルであること、そしてその手には百合ではなく、天国の棕櫚の葉が携えられていることでした。大天使は、三日後に迫った臨終をマリアに告げます。マリアの顔には安堵の色が静かに広がっていきます。長かった彼女自身の受難にも、やっと終わりの時がやって来たのです。
 そして臨終の日。伝道のために世界各地に散っていた使徒たちが、雲に運ばれて集められました。マリアはこの世を去る前に、今は子供たちとも思う使徒たちに一目会いたいと願ったからです。おそらくそれは、受容の生涯を生きたマリアが人生の終わりにたった一度、自らの意思を神に伝えた瞬間だったかも知れません。

 当時の祝祭、道徳的主題を多く扱い、また農民の生活を描いて「農民ブリューゲル」と呼ばれたピーテル・ブリューゲルも、一方で、このように幻想的で美しい宗教画を描いています。グリザイユと呼ばれる白黒の明暗を用いた技法で描かれたマリアの部屋は本当に質素でつつましく、マリアの生涯の清らかさが見る者の心に静かに伝わります。死の床につくマリアは神秘の光に包まれ、その枕元に集まる使徒たち、そしてお別れを告げるために集まった名もない人々がその光に映し出される様子は、イエスが誕生したその時の、家畜小屋のシーンのようです。マリアを包む光は暖かく静謐で、私たちは、自らの心も温められ、癒されていく幸せを感じないではいられないのです。
 聖母の死は「お眠り」とも言われます。マリアはこれから、少しのあいだ深い眠りに入るのです。つまり、彼女の肉体の死は一時的なものにすぎず、それから三日後にキリストの手で復活し、魂に肉体を伴って昇天するのです。自らの力によってではなく、天使たちに伴われて昇天する…..そこから被昇天と呼ばれているのです。

 ブリューゲルはしばしば、主題を中央には置かず、はずした位置に据えることの多い画家ですが、この作品でもマリアの寝台や人々は右側に集中して描かれています。そして、ふと左端を見ると、暖炉の脇で居眠りをしている人物が目に留まります。そして、この人物が、どうやら聖ヨハネらしいと聞いて、とても意外な思いに打たれます。でも、こんな大切な場面で居眠りしてしまう彼に、ちょっと苦笑をさそわれるとともに、人間存在の普遍的問題を含んだ寓意画に卓抜した人間表現を見せてくれたブリューゲルの眼を、確かに感じてしまうのです。

★★★★★★★
バンベリー・アプトン・ハウス(ナショナル・トラスト) 蔵



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