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「聖母のエリサベツ訪問」(『ブシコー元帥の時祷書』より)

ブシコーの画家  (1410-12年頃)

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 「お元気そうね、ようこそ」
 そう言って駆け寄るのは、聖母マリアの従姉にあたるエリサベツです。輝かしく、この上なく喜ばしい、一連の聖母の物語の中でも最も麗しい場面かも知れません。
 このとき、マリアは子を宿したばかり、そしてエリサベツもまた長い不妊のあと、すでに妊娠6カ月となっていました。ですから、この作品の表現は、厳密に言えば間違っていることになります。聖母のふくよかなお腹は、もう臨月に近い女性のもののようですから…。
 しかし、そんな些細なことは気にならないほど、この作品の美しさには心が震えます。このような景観の中でのエリサベツ訪問は、数多い同じテーマを扱ったものの中でも、珍しいのではないでしょうか。降り注ぐ太陽の光は二人に祝福を与え、前景の木々、後景の湖、そこに浮かぶ白鳥、耕作する人、山々など、空気遠近法を用いた、作者の自然への関心がうかがえます。

 中世の後半にあたるゴシック時代、画家たちの大自然への関心は次第に高まっていたようです。しかし、それはまだまだ自然そのままの表現ではなく、どこか象徴的で、伝説的で、稚拙なものであったかも知れません。しかし、緑青の上に金泥の細い線で繊細に描かれたみごとな草や葉を見るとき、私たちはその夢のようにふくよかな優しい世界に出会えたことを、この上なく幸福に感じることができるのです。
 この作品は、ブシコー元帥と呼ばれたジャン・ル・マングル2世夫妻の注文により制作されました。ブシコー元帥は、十字軍、百年戦争のヨーロッパ各地の戦場に赴いた、”神のおぼしめすままに”を信条とした信心深いフランス騎士だったと言われています。その元帥が1396年に、コンスタンチノープル近くのニコポリスの戦いでトルコ軍の捕虜となりながら奇跡的に生還するという経験をしました。そのため、自らの守護聖人たちへの感謝をこめて、日々の祈りを捧げるために制作させたのが『ブシコー元帥の時祷書』であり、この作品は、27点の聖人像で始まる大型の44点のミニアチュールからなる豪華な時祷書の中の一作なのです。

 それにしても、聖母が身にまとうマント、エリサベツの衣装に見える、目のさめるような青の美しさ、優雅さをどう表現したらいいのでしょうか。これは、青い宝石ラピス・ラズリを砕いた群青です。ほかにも、緑青、朱色といった鮮やかで高価な天然顔料がふんだんに使われ、羊皮紙に金彩色がほどこされた細密画の美しさは、やがて装飾写本の宝石として、ブルボン家のアンリ4世にも伝えられるのです。
 この時祷書には、西洋美術の空間表現のすべてがあると言われています。縁を飾る花文様、うねるような線で表現された人物たちは、地中海文様、ゴシック様式、そして遊牧民的アラベスクの系譜までも感じさせます。さらに、垂直、水平のもつ空間表現はイタリア・ルネサンス様式、また美しい光や影、色彩やさわやかな空気感は北方の香りも十分に感じさせてくれるのです。

 そのように、西洋美術のすべてが語られたこのみごとな時祷書を制作したのは、逸名の写本彩飾師「ブシコーの画家」です。彼は、特定の庇護者を持たずにパリで工房を営み、幅広いジャンルの写本彩飾に携わったとみられています。現在では、1404年頃にパリで、ブルゴーニュ公フィリップ豪胆公のために聖書の挿絵を制作した、ブリュージュ出身のジャック・ケーヌという画家と同一人物ではないか、という見方が有力です。
 自然の光や色彩の微妙な変化….その心地よさと優美さに心なぐさめられながら、日々この時祷書に親しんだブシコー元帥は、おそらく、1415年にイギリスとの戦いに捕えられ、その6年後に没するまで、魂の安らぎを得つづけることができのではなかったか、という気がします。

★★★★★★★
パリ、 ジャックマール=アンドレ美術館 蔵

 <このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
  ◎全訳 驚異の書  マルコ・ポーロ東方見聞録
        辻佐保子,樺山紘一,月村辰雄 日本版監修  岩波書店 (2002-03-18出版)
  ◎西洋絵画の主題物語〈1〉聖書編
        諸川春樹監修  美術出版社 (1997-03-05出版)
  ◎西洋美術史(カラー版)
        高階秀爾監修  美術出版社 (1990-05-20出版)



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