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「死の杯」

エリュー・ヴェッダー (1853年)

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 死の天使が差し出す杯に口を寄せる乙女は、ただ夢見るような美しさです。死の川を下りながら、すでに永遠の眠りに入ろうとしているのかもしれません。「死と乙女」はヨーロッパ象徴主義の画家が好んで取り上げた主題ですが、この作品は、アメリカでは少数派であった象徴主義、幻想主義の先駆となった112.7×52.7㎝の大作なのです。

 ところで、ここに描かれた死の天使は筋骨隆々と逞しく、浅黒い肌を持っています。それは、ペルシアの中世の詩人オマル・ハイヤームの詩集『ルバイヤート』から想を得ているためなのです。『ルバイヤート』は酒と美女をたたえ、現世の快楽を詠んだ無神論的な詩集として知られていますが、ここには、死の影が人から離れることはなく、人生ははかないものだという無常観も表現されているのです。

 オマル・ハイヤームは詩人としてだけではなく、数学や天文学、イスラム法学などにも通じた賢者として知られていました。彼はイラン北東部の都市マシャドから西に80キロの地方都市ネイシャブールで生まれ、没しました。イラン人を魅了する彼の詩は、今でも年間20万人の足をネイシャブールに運ばせていると言われています。当時のイスラム教徒は人口の半数ほどだったようですが、禁欲的な現体制がハイヤームの詩を容認している理由は、ペルシャにおいて「酒を飲む」という表現が「現世を忘れる」という意味にも使われるからだといいます。そう考えると、この美女は今、死に赴くというよりも、現世での悩みやしがらみから解放されようとしていると見てもよいのかもしれません。

 この作品を描いたエリュー・ヴェッダー(1836-1923年)は若いころ、グリーティングカードのデザインや雑誌のイラストなどを手がけていましたが、20歳のときのフランス・イタリア旅行を経て30歳でローマに移り住み、87歳で没するまで彼の地で暮らしています。
 ヴェッダーが活躍を始めた1860年代は、アメリカはまだ生まれたばかりの新しい国でした。だからこそ、多くの画家はヨーロッパに留学して学ぶことが普通でした。それはリアリズムや印象派、あるいはアカデミックな様式であったのですが、ヴェッダーは幻想性豊かな作品を描くことで他の画家たちに一線を画する存在だったのです。
 それには、ヴェッダー自身の個人的な事情があったかもしれません。彼は多感な少年時代、死にまつわる不吉な体験を重ねたと言われているのです。それは、彼の祖父が腕時計を巻きながら、「今日の夜中の3時に死ぬよ」と予言し、その通りに死去したこと、また、インディアンごっこをしていてペットの犬を誤って矢で射殺してしまったことなど、無垢な子供の心には耐え難い苦痛を伴う不吉な出来事ばかりでした。そして、それはヴェッダーの芸術に大きな方向性を与えたに違いありません。

 栗色の髪を持つ年若い美女と東方的な雰囲気を漂わせる死の天使の道行き…..。しかし、もし天使が見事な翼を持たなければ、恋人同士の逃避行のようにも見えます。単に不吉なだけではない、独特の叙情を感じさせるヴェッダーの世界は、見る側にもさまざまに想像の翼を提供してくれているのです。

★★★★★★★
リッチモンド、 ヴァージニア州立美術館 蔵

 <このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
  ◎西洋美術館
       小学館 (1999-12-10出版)
  ◎すぐわかる画家別幻想美術の見かた
       千足伸行監修  東京美術 (2004-11-20出版)
  ◎オックスフォ-ド西洋美術事典
       佐々木英也訳  講談社 (1989-06出版)
  ◎西洋美術史
       高階秀爾監修  美術出版社 (2002-12-10出版)

 



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