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「ロレンツォ・イル・マニフィーコの肖像」

ジョルジオ・ヴァザーリ (1534年頃)

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 豪華王と呼ばれたロレンツォは、本当にこの肖像画を望んだのでしょうか。苦悩に満ちた横顔と、暗い背景に浮かぶ不気味な仮面が印象的です。殊に、ロレンツォの顔のそばに、まるで囁きかけるように出現した仮面は、少し笑いを含んで、地獄からの使者のように見えます。

 マキアヴェッリはロレンツォ・デ・メディチを評して、「運命から、神から、最大限に愛された男」と言っています。確かにロレンツォの時代、メディチ家は絶頂期を迎えます。彼は、曾祖父ジョヴァンニ、祖父コジモ、父ピエロと三代にわたって築かれたメディチ家の強力な経済力、政治力、フィレンツェ市民の信頼を背景に、フィレンツェ共和国を完全にメディチ家の支配下に置くべく、20歳から当主として本格的な活動を始めました。何一つ陰るところのない、洋々たる人生といえるでしょう。
 背が高く、がっちりした体格ながら、祖父コジモゆずりの色黒で、長くひしゃげた鼻、しゃがれた声の持ち主だったと言われています。おそらく決して美男とは言い難い人物だったことでしょう。しかし、とても陽気で、教養も高く、ウィットに富む話しぶりで、ロレンツォに会った人は必ず彼を好きになったといいます。優雅で快活な彼の周りにはいつも友人たちの笑顔が絶えませんでした。
 ロレンツォの父コジモは、ロレンツォの幼少の頃から、帝王学を学ばせたといいます。ロレンツォは、5歳からラテン語を学び、10歳頃からはフィレンツェ大学に通い、12歳にはラテン語を完全にマスターしていました。プラトン・アカデミーにも常時出席して哲学論争に参加したほか、女流詩人だった母ルクレツィア・トルナヴォーニからも大きな影響を受けて育ったのですから、これ以上ない環境だったことでしょう。ロレンツォは、みごとに洗練された知識人として成長したのです。
 美的感覚にも優れたロレンツォは、多くの芸術家のパトロンともなりました。何と言っても、ミケランジェロの最初の保護者であることは有名です。他に、ヴェロッキオ、ベルナルド・ディ・ジョヴァンニ、ポライウォーロ兄弟など、数え上げればきりがないほどです。ロレンツォは彼らを庇護するだけでなく、海外に派遣して制作させるなど上手に政治にも利用したことは、彼の政治家としての手腕も知らしめるものだったと思います。そうした後援活動によって、ロレンツォは若くして「イル・マニフィーコ(偉大な、豪華な)」と呼ばれるようになったのです。

 ところで、この肖像画の作者ジョルジオ・ヴァザーリ(1511-74)が画家であったと知らない人も、もしかすると多いかも知れません。それは、『著名画家・彫刻家・建築家列伝(美術家列伝)』の著者として余りにも有名だからです。これは1550年に初版が、1568年に増補改訂版が出版されています。この業績によって、ヴァザーリは「最初の美術史家」と言われています。『美術家列伝』はイタリアの美術家の伝記を集成したもので、美術史の基礎資料としての重要性は今もなお、誰もが認めるところです。ことに、初期マニエリスム期の芸術観、美術史観のきわめて貴重な記録となるものなのです。
 しかし、伝記作者である前に、ヴァザーリはやはり画家でした。13歳の時に枢機卿シルヴィオ・パッセリーニの後援を得て生地アレッツォからフィレンツェに出て、アンドレア・デル・サルトとバルトロメオ・バンディネリについて修業しています。その後、フィレンツェとローマを舞台に旺盛な制作活動を展開していました。そして、1554年以降はトスカーナ公コジモ1世のもとで活動し、多くの絵画、建築を手掛けたのです。
 ヴァザーリはミケランジェロをほとんど偶像視していましたから、その絵画は複雑な人体描写、冷たい色調を特徴とした典型的なマニエリスム画家でした。ところが、芸術家としてのヴァザーリの評判は、それほど高いものではなかったようです。どちらかと言えば、装飾家、建築監督としての評価のほうがずっと高かったのです。その中でも、代表的な仕事には、コジモ1世の命によるパラッツォ・ヴェッキオ宮殿の改築、そして現在のウフィッツィ美術館の造営(1560)などがありました。

 それにしても、ふと考えてみますと、ヴァザーリが生まれたのは、ロレンツォ・イル・マニフィーコの死から19年後です。当然、直接ロレンツォに会ったことはなかったわけで、豪華王はすでに冥界の人でした。この肖像画もアレッサンドロ・デ・メディチの注文によるものだったといいます。歴史の中の人物を描こうとするとき、画家はどのように想像力をふくらませて描くのでしょうか。他の画家の描いたものを参考にするのでしょうか。記録をもとに、正確を期して描くのでしょうか。伝記作家でもあったヴァザーリは、とても陽気で人をひきつける魅力に満ちていたロレンツォを、あえて冥界で沈思する人物として描きました。もしかしたら、そんなロレンツォとの対話を、マニエリスムの画家らしい感性で楽しみつつ、描いたのかも知れません。
 ちなみに、注文主アレッサンドロは、豪華王ロレンツォの弟ジュリアーノ・デ・メディチの庶子で、生まれてすぐにロレンツォの養子となったジュリオ・デ・メディチ(クレメンス7世)の庶子であったとみられる人物で、1531年にフィレンツェ大公となっています。

★★★★★★★
フィレンツェ、 ウフィッツィ美術館 蔵

 <このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
  ◎わが友マキアヴェッリ―フィレンツェ存亡
        塩野七生著  中央公論社 (1992-10出版)
  ◎NHK フィレンツェ・ルネサンス〈6〉/花の都の落日 マニエリスムの時代
        森田義之・日高健一郎著  日本放送出版協会 (1991-10-10出版)
  ◎『美術家列伝』〈2〉ドナテッロ レオナルド・ダ・ヴィンチ
        ジョルジオ・ヴァザーリ著  大学書林 (1998-06-30出版)
  ◎西洋美術史(カラー版)
        高階秀爾監修  美術出版社 (1990-05-20出版)
  ◎西洋絵画史WHO’S WHO
        諸川春樹監修  美術出版社 (1997-05-20出版)



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