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「ジローラモ・サヴォナローラの肖像」

フラ・バルトロメオ (1517年)

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 禁欲的で厳格な人間性、強固な決断力を秘めた横顔は、おそらくジローラモ・サヴォナローラの実像を過不足なく伝えるものなのでしょう。ここには、描かれた本人だけでなく、画家自身の情熱もふつふつと湧き上がってきているのを感じることができます。

 西暦1452年、ジローラモ・サヴォナローラはフェラーラに生まれました。22歳のとき、ボローニャでドメニコ派の修道士となり、1482年にフィレンツェにあるサン・マルコ修道院に移ると、ドゥオーモにおいて、当時の人々の享楽的な生活を非難する説教を行います。それがフィレンツェの人々の支持を集めたのです。そして何よりも彼は、メディチ家支配下の風俗や政治を激しく批判し、ついにはフィレンツェからメディチ家を追放してしまうのです。
 イタリアの古都フィレンツェの実権を握ったサヴォナローラは、人々の精神生活の刷新に努め、素朴な神への信仰に基づいた質素な暮らしを人々に求めました。しかし、一度は彼の説教に共感したフィレンツェの人々も、あまりに厳しいサヴォナローラの統治に対して次第に反感を募らせるようになっていきます。そして、ローマ法王アレクサンデル6世もまた、教会腐敗の攻撃をやめないサヴォナローラに説教することを禁じ、ついには破門するに至ります。権威を失ったサヴォナローラは異端の罪で逮捕され、最後にはシニョーリア広場で絞首刑ののち、火刑に処されてしまうのです。

 フラ・バルトロメオ(1472-1517年)は、画家としての修業を積んでいるときにそのサヴォナローラの説教に心酔した一人でした。サヴォナローラが布教を始めると、彼は宗教的な危機を感じ、1500年には一度、聖職に就くために絵画を放棄したほどでした。しかし、1504年には美術界に復帰し、サン・マルコ修道院の中に工房を開き、制作を続けることとなります。それほどにサヴォナローラの影響を強く受けたフラ・バルトロメオですから、彼の描く神や聖人たちはその画境の発展に伴い、よりいっそうの神秘性を帯びるようになっていきます。
 フラ・バルトロメオは、どちらかと言えば、同時代のラファエロほどの豊かな才能には恵まれていなかったと言われています。しかし、大気を表現して雰囲気に溶け込ませるというレオナルド・ダ・ヴィンチが始めたスフマートという技法を用い、新しい、画面全体が大きく動きを持った盛期ルネサンスタイプの聖母子像を生み出していきます。そして、1508年にヴェネツィアへ赴いたことで、暖かく現実的な色彩を我がものとします。こうしたバルトロメオの新しいトスカーナ美術は、やがてまだ年若いティツィアーノにも深い影響を与えていくことになるのです。

 ところで、サヴォナローラが処刑されたシニョーリア広場の中央には、現在でもサヴォナローラ火刑の跡を示す石版が埋め込まれています。彼は処刑の際、一言も声を発することなく吊されたと言われており、最後の言葉を期待した民衆は失望し、サヴォナローラへのフィレンツェ市民の信仰は完全に失われたといいます。しかし、この肖像画には、熱狂的な伝道師の死後、その名誉回復を願うバルトロメオの切なる願いと変わらぬ尊敬の念が、今も確かに生きていることを私たちは十分に感じ取ることができるのです。

★★★★★★★
サン・マルコ美術館 蔵

 <このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
  ◎西洋美術史(カラー版)
        高階秀爾監修  美術出版社 (1990-05-20出版)
  ◎西洋絵画史WHO’S WHO
        諸川春樹監修  美術出版社 (1997-05-20出版)
  ◎NHK フィレンツェ・ルネサンス〈6〉/花の都の落日 マニエリスムの時代
        日本放送出版協会 (1991-10-10出版)
  ◎オックスフォ-ド西洋美術事典
        佐々木英也訳 講談社 (1989-06出版)



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