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「イサクの犠牲」

フィリッポ・ブルネレスキ (1401-02年) 

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     <ギベルティ作「イサクの犠牲」>

 「創世記」22:1-19に記された「イサクの犠牲」の物語は、神の試練としてもあまりに苦しく、むごいものでした。
 旧約聖書における最初の偉大なユダヤの族長アブラハムは、妻のサラと息子イサクとともに暮らしていました。ところが、神はアブラハムの信仰を試すため、神の恩寵によって授かったイサクを、犠牲として火にかけるよう命じるのです。
 アブラハムは苦しみました。しかし、神の言葉に従い、生贄の祭壇でイサクを縛り、小刀を抜きます。しかし、その瞬間天使が現れて、アブラハムの手を押しとどめて言うのです。「あなたの子さえ、わたしのために惜しまないのを見て、あなたが神を恐れる者であることを知った」。

 この作品は、まさにその瞬間をとらえたブロンズの鍍金です。わずか45×40㎝の作品ですが、その場の緊迫感、さらに一瞬のスピード感と臨場感が見る者の心をとらえます。代わりの犠牲となる子羊の精緻な表現もみごとで、アブラハムの腕を押さえる天使の力強さが、そのまま作者ブルネレスキの力量の現れのように感じられるのです。
 ところが、この劇的で魅力的な作品は、コンクール落選の憂き目に遭っていました。

 15世紀初頭のフィレンツェは、ルネサンス美術の萌芽のときを迎え、困難の中からドナテッロやマザッチオらの創造的な芸術が生み出されつつありました。
 そんな中、1401年に、サン・ジョヴァンニ洗礼堂ブロンズ門扉の作者を決めるコンクールが行われました。これは愛国心の鼓舞と、不幸なペスト流行の終息を人々に知らしめる意図があったと言われています。
 このコンクールは古代以来最初の美術コンペでしたが、最終的に残ったのがロレンツォ・ギベルティと、このフィリッポ・ブルネレスキの作品でした。そして結局、繊細で優美なギベルティのものが選ばれたのです。以後、二人はライバルとして、ことあるごとに火花を散らすこととなります。二人の性格は作風そのまま、まったく異なるものだったのです。
 ところで、ブルネレスキではなくギベルティが勝利した一番の理由は、鋳造技術の違いにあったようです。ギベルティは、イサクの部分だけを別に鋳造し、本体に取り付けるという確実な方法をとりました。一方、ブルネレスキは、全体を七つの部分に分けて鋳造しています。しかも、ギベルティが18.5㎏のブロンズ量で済ませているところを、ブルネレスキは25.5㎏使用していて、強度や経済的な面でもギベルティのほうが高評価だったようです。
 しかし、今、両者を見比べたとき、古代彫刻を思わせる人物像と、動きの少ない優美でまとまりのよいギベルティの「イサクの犠牲」よりも、風をはらんだドラマチックなブルネレスキ作品に、よりルネサンスの幕開けにふさわしい新しい息吹を感じる向きも多いようです。

 フィリッポ・ブルネレスキ(1377-1446年)は、初期ルネサンス最大の建築家として知られています。サンタ・マリア・デル・フィオーレ聖堂のドーム建築は、彼の揺るぎない地位を築いた代表的な傑作です。そして、もちろん、金細工師、彫刻家としても活躍しました。そんな彼が、ブロンズ門扉コンクールに敗れたあと、ローマに滞在して古代建築の研究をしたということです。転んでもタダでは起きない、勉強を怠らなかった勤勉なブルネレスキ像が浮かんできます。
 しかしまた、彼はなかなか楽しい人物だったという話もあります。ジョークを言って人を笑わせるのが好きなブルネレスキというのも、意外な感じがします。フィレンツェの公証人の家に生まれ、高い教育を受けながらも芸術の道を志した彼は、聡明で知的で、人生を楽しむ余裕も持った、なかなかオシャレな人柄だったのかもしれません。

★★★★★★★
フィレンツェ、 バルジェッロ国立美術館 蔵

 <このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
  ◎西洋美術史(カラー版)
       高階秀爾監修  美術出版社 (1990-05-20出版)
  ◎ルネサンス美術館
       石鍋真澄著  小学館(2008/07 出版)
  ◎オックスフォ-ド西洋美術事典
       佐々木英也著  講談社 1989/06出版 (1989-06出版)
  ◎西洋美術館
        小学館 (1999-12-10出版)



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