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「馬丁たちの聖母」(蛇の聖母)

ミケランジェロ・カラヴァッジオ (1605年)

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 「さあ、いっしょに邪悪な蛇を踏みましょうね」….。
そんな感じで幼いキリストを促す聖母の姿は、ちょっと珍しいかも知れません。
 本来、聖母マリアが蛇を踏みつけて立つ姿は、「無原罪の御宿り」などでよく見ることができ、私たちの目にも比較的お馴染みです。全人類の中でただ一人、原罪を免れていたマリアは、特に16世紀以降、「エヴァの罪」から人間を解き放つように定められた者…といった役割を持つようになりました。つまり、彼女は主イエスの母にして、「第二のエヴァ」なのです。そのため、エデンの園でエヴァをそそのかした蛇を、象徴的に踏みつけて立っているというわけなのです。
 しかし、「無原罪の御宿り」に描かれるマリアたちは、たいていの場合、それは清らかで高貴で、あるいはこの上なく可愛らしく無垢な姿で表現されることが大半なのですが、イタリア・バロックを代表する写実の画家カラヴァッジオは、市井の、それもとても裕福とは言い難い環境に生きる女性として、聖母マリアをこのように、人間的に描いています。

 そのせいでしょうか。教皇にはちょっと、気に入ってもらえなかったようです。『馬丁たちの聖母』というタイトルからも判るように、最初はヴァティカンの専属馬丁組合、聖アンナ信心会からの注文で描かれ、サン・ピエトロ大聖堂に飾られたものの、わずか二日で撤去されてしまったのです。
 たしかに、聖母は胸の大きく開いた衣装を身につけ、どこか娼婦を思わせますし、幼な子イエスの描写も、裸体であることが強調され過ぎているかも知れません。また、傍らに立つ聖アンナも、「あらあら….」とでも言っているかのごとく心ここに在らざる風情で、どちらかと言えば、生活そのものにすっかり疲れてしまったように見受けられます。やはり、民衆を主人公にして聖なる場面を演出する手法は、教会側としては受け入れ難いものであったようです。しかし、教皇にもし、もう少し本質を見抜く力があったとしたら、この貧しい家族を包む、荘厳で侵しがたい深い宗教性を感得し得たかも知れません。

  ただ、当のカラヴァッジオはおそらく、そんな拒絶反応には慣れっこだったことでしょう。彼の徹底した写実はしばしば品位に欠けるものとして非難を受け、この絵と同じく、教会や注文主から拒否されていたからです。そのうえ、画家自身が喧嘩や暴行で十数回もローマの犯罪記録に記され、最後には殺人まで犯してお尋ね者になってしまうのですから、穏やかではありませんでした。
 ですが、彼の素行と画家としての力量は別です。カラヴァッジオの持つ、独自の世界….光と闇の強烈なリアリズムの衝撃は、見る者を離れ難く魅了したに違いありません。ですから、カラヴァッジオの庇護者も多く、彼の影響はヨーロッパ全土に及んだのです。
 ルネサンス以降、ものの輪郭は明確な線によって表現されてきましたが、カラヴァッジオの輪郭は光と闇の対比そのものでした。昼間の光と夜の闇に生きる人間にとって、これは感覚的にとても自然な表現かも知れません。線以上のリアリズムと、劇的なその瞬間の描写は、理想美によって新たな絵画を創造したカラッチ一族とは一線を画する、もう一つの絵画の流れを決定づけたものと言えるのです。

 ところで、ここでしっかりと聖母子に踏みつけられている蛇ですが、彼がただの悪者として葬られてしまうのは可哀想なので、少し擁護しておきたいと思います。ヨハネの黙示録では、サタンを称して「年を経た蛇」とさえ呼ばれ、すっかり嫌われ者になってしまっていますが、じつは彼は一方で、豊饒、知恵、病を癒す力を意味し、一部では神として崇められてもいます。
 また、「賢明」の擬人像の持ち物とされ、マタイ福音書には「蛇のように賢くあれ」との記述さえあるほどです。それから転じて、知恵の女神ミネルヴァの持ち物、他に「論理学」「潔白」「アフリカ」などの擬人像の持ち物でもあるわけですから、もしかすると、聖書、神話を通して、これほどにたくさんのインスピレーションを与え続けてくれているキャラクターは、他に類を見ないかも知れません。

★★★★★★★
ローマ、 ボルゲーゼ美術館 蔵

 <このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
  ◎キリスト教美術図典
        柳宗玄・中森義宗編  吉川弘文館 (1990-09-01出版)
  ◎西洋絵画の主題物語〈1〉聖書編
        諸川春樹監修  美術出版社 (1997-03-05出版)
  ◎西洋美術史(カラー版)
        高階秀爾監修  美術出版社 (1990-05-20出版)
  ◎西洋絵画史WHO’S WHO
        諸川春樹監修  美術出版社 (1997-05-20出版) 



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