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「キリストの磔刑」

シモン・ヴーエ (1636年)

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 弓なりにカーヴしたキリストの美しい姿は、この場の悲劇をしばし忘れさせてしまいます。筋肉のしっかりついた、均整のとれた身体は右前方からの光を受けて、舞台上の主人公のように浮かび上がります。そして、その足元には余りの悲しみに気を失った聖母、画面の両端には聖ヨハネとマグダラのマリアが、劇的な表情とポーズで十字架上のキリストを見上げ、安定した構図を構築しています。この不思議に静かな画面からは磔刑図の持つ悲劇性よりも、鑑賞者と救い主との間の、ほの温かい気の還流のようなものが感じられるのです。
 キリストは十字架上で自分自身を犠牲にすることによって、人類が代々背負ってきたアダムの原罪からの救済の可能性をもたらしました。ルネサンスおよびそれ以降の芸術家たちは繰り返し、十字架上で息絶えたキリストを表現してきましたが、キリストの頭部は右肩に傾いて描かれるのが普通だったようです。そんなわけで、左側に頭を垂れたこの作品を見たときに、ある種の違和感を感じる人も多いかも知れません。死せるキリストながら、なぜかそこに生き生きとした生命の輝きを感じてしまう原因も、そんなところにありそうな気もします。また、洗練された滑らかな絵肌、マニエリスム的でありながら飽くまでもセンスの良い色遣いもまた、この作品の雰囲気を親密なものにしているのかも知れません。

 作者のシモン・ヴーエ(1590-1649年)は、フランス・バロックの一画家というだけでなく、17世紀前半におけるフランス絵画に最も影響力を持った画家であったと言われています。初めは父親に絵画の手ほどきを受けていましたが、まず肖像画家として名声を博したのが14歳より前のことでした。その天才ぶりには驚くばかりですが、やがて1612年にパリを出てヴェネツィアに滞在したあと、1614年から27年にかけてローマに定住して再び目ざましい成功をおさめ、1624年にはなんとアッカデミア・ディ・サン・ルカ(聖ルカ・アカデミー)のプリンスと呼ばれ、学長にも推されています。やがて、ルイ13 世から国王の首席画家に任命されて帰国を要請され、フランスに戻ってからはますます高い評価を受けて、王立絵画・彫刻アカデミー創立メンバーの一人となるのです。
 このように輝かしい生涯を送ったヴーエでしたが、イタリアで最初に影響を受けたのは、やはりカラヴァッジオでした。暗い画面に一条の光によって人物を浮かび上がらせる手法は、確かにカラヴァッジオ派の強い影響を感じさせます。しかし、当時のフランスではまだ、カラヴァッジオ的な圧倒的自然主義や激しい情念、動きを持つ、あまりにもバロック的な絵画はまだ少し受け入れにくい体質があったようです。だからこそ、イタリアでカラヴァッジオだけでなく、ボローニャ派、ヴェネツィア派の色彩豊かで魅惑的な絵画様式も吸収したヴーエの作品は、まさにぴったりとフランスの人々の心をとらえたことでしょう。しかもヴーエには、生き生きとした創造性がありました。その中でも、この『キリストの磔刑』は、特に魅力あふれる磔刑図として評価されています。後期マニエリスムに慣れ親しんできた人々は、それまでにない格段の明るさ、大らかな表現をもったヴーエの様式に魅せられていきました。バロック的な画風も加味し、しかし飽くまでも洗練された趣味を持ったヴーエの活躍は、フランス絵画史からは絶対に外せないものなのです。

 ところで、ヴーエは大規模な工房を持っていました。そして、優秀な弟子を率いて、教会の大祭壇画や個人の邸宅の装飾などをこなしていったわけです。彼の工房からは、将来のアカデミーを担う人材が多く輩出され、シャルル・ル・ヴランユベール・シュウールピエール・ミニャールらの名前を見出すことができます。
 才能を持った画家が、きちんとした基盤を持って安定した活躍をすることの見本を、フランス絵画界に確立したという意味でも、ヴーエは特筆すべき画家であったと言われています。

★★★★★★★
リヨン美術館 蔵

 <このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
  ◎西洋絵画の主題物語〈1〉聖書編
        諸川春樹監修  美術出版社 (1997-03-05出版)
  ◎西洋美術史(カラー版)
        高階秀爾監修  美術出版社 (1990-05-20出版)
  ◎西洋美術館
        小学館 (1999-12-10出版)



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